3月26日
カフェ・シエロはあっけないほどすぐに見つかった。
駅の正面にまっすぐ伸びる商店街、その遠くにきれいな青い建物を見つけた。たぶんあれだろうと見当をつけて近づいたら、自分のイメージ通りのカフェがそこにあった。予想がはずれたのは建物の色くらいか。
初めての空間に入るとき、僕は極度に緊張する。大抵は終わってみれば何てことないし、今回だって、いざ中に入ればどうってことないだろうと頭ではわかっている。わかっているのに、性格というのは治らないもの。
じいちゃん、とりあえず、このビビリ屋の性格を何とかしてよ。
遠くから様子を伺うのも結構なストレス。意を決して僕はカフェ・シエロのドアノブに手をかけた。じいちゃんの遺言を握りしめて。
◇◇◇
事の発端は1週間前。じいちゃんが突然やってきて家族の一人一人に遺言を渡していった。
武志へ 武志、覚えているかい。武志が小さいころ、「じいちゃんはいつも楽しそうだね。」って聞いたことがあった。その時じいちゃんは「武志が中学を卒業する年になったら、楽しく生きる秘密を教えてあげよう。」と答えたんだよ。 それを伝える時が来た。 松山町のカフェ シエロのマスターに会うのだ! 秘密を解き明かす鍵がそこにある。 武志が秘密を解き明かすかどうかはじいちゃんにもわからん。 でも、武志ならきっとやり遂げてくれると信じている。 良い人生を歩んでくれ。
じいちゃんより
追伸 マスターに会って、うまく説明できないときは、この遺言をそのまま見せればわかるはず。 ともちゃん、昔のよしみで頼まれてくれ。 |
「遺言て・・・じいちゃんまだ生きてるじゃん。」
「いやね、海外で何が起きないとも限らないし、遺言書いておこうと思ってね。それが、書いてみたら妙にワクワクしちゃって、せっかく書いたんだから渡しちゃおうってなったわけよ。この遺言は、特に指示がある場合を除き、人に見せてはならぬ。家族にもじゃ。では、みなの者、ぐっどらっく!」
そう言い残して、じいちゃんは一人で海外旅行に行ってしまった。
◇◇◇
店内は青色の外観とは打って変わって木目調の落ち着いた雰囲気。テーブル席が4つにカウンター席の小さなカフェだ。奥さまグループが奥のテーブルで話をしている。隣のテーブルは大学生だろうか、一人で本や辞書を広げて勉強をしている。空いているテーブルを1人で占領するのも悪いような気がして、僕はカウンターに腰をかけた。店は女の人が一人でやってるみたい。マスターの娘さんだろうか。今日はマスターいないのかな。
「いらっしゃいませ。何になさいますか。」
「コーヒーを下さい。」
コップの水を一口飲んで、もう一度店内を見渡す。あのおばさん達は近所のママ友ってやつかな。大学生のおねえさんは何の勉強だろう。
「はい、コーヒーお待ちどうさま。」
「あっ、どうも。」
喫茶店に一人で入ったことなんか今までなかった。何だか落ち着かない。あのおねえさん、よく勉強できるなあ。常連さんなんだろうな。またお客さん。今度はスーツのおじさんが二人。テーブルの空きはあとひとつ。おねえさんが本を片づけた。帰るのかな。いや、こっちにきた。混んできたからカウンターに移ったのね。優しいじゃん。
「ともちゃん、ちょっとおなかすいちゃった。何かなあい。」
・・・ともちゃんて、このおばさん?
「そう来ると思ったわ。ちょっと待ってて。」
「ありがとう。」
かなりの常連さんだな。あれで注文完了か。でも、ありがとうって自然に言える人、なんかいいな。自分なら、「どうも」で終わってたな。今度から気をつけて、ありがとうって言ってみようかな。
「はい、アップルパイ。あなたもどうぞ。」
「えっ、僕? あっ、ありがとうございます。」
くすっとおねえさんがこっちを見て笑った。
「お兄さん高校生?」ともちゃんの声に再びうろたえた。
「はっ、はい。正確にはまだ中3ですけど、4月から松山高校に通います。今日は学校説明会があって来たんです。」
「でも、中学生が一人でコーヒーを飲みに来るなんて、めずらしいわね。」
僕は意を決してじいちゃんの遺書をマスターに見せた。
「あらやだ、あなた西野先生のお孫さん? だけど、西野先生は今キリマンジャロに登ってるはずよね。亡くなってないわよね。」
「キリマンジャロに行く前に遺書を書いたら、楽しくなっちゃって、渡すことにしたんだそうです。ともちゃん頼まれてくれなんて書いてあるから、マスターはじいちゃんの幼なじみなのかと。」
「なるほどね、言われてみれば西野先生の考えそうな事だわ。私は江口朋子。西野先生の昔の教え子よ。でも先生ったら、卒業して20年も経つのに、また宿題を出そうっていうわけね。でもいいわ。私なりに西野先生が伝えたかったことを話していくね。時々ここにいらっしゃい。」
そういうマスターのうれしそうな顔を見ると、なんだか現実の世界じゃないみたい。もしかしたら本当に秘密があるかもって思ってしまう。
「私は押野やよい。芸術工科大の1年生。マスターは私のおばさんなの。今はおばさんの家にいそうろう中。時々ここで会うことになりそうね。よろしくね。」なんだ、親戚だったのか。どうりで「ともちゃん」なんて軽く言えたわけだ。
「武志くんていうのね。それじゃあ今日は、西野先生の話の中で一番ワクワクした言葉を話すね。それは、『大人は楽しい。』ということ。『高校生になるとな、中学の3倍楽しいぞ。だけど、大学に行ってみたら高校の3倍楽しいのよ。でも、大人になって働き始めてみると、大学の3倍以上楽しいんだなこれが。みんなも早く大人の世界にいらっしゃい。』なんてね。中学時代は、三十代なんて人生の墓場だと思ってたから、あまり本気にもしなかったけど、先生がそんなに言うなら期待してもいいのかなって密かに思ってた。」
「それで、大人になった感想は?」やよいさんも興味深々のようす。
「三十代も後半になろうとしてるけど、先生のおっしゃる通りだった。決して中学時代が楽しくなかったわけじゃないけど、今の楽しさはレベルが違うわね。」
◇ ◇ ◇
『大人は楽しい。』か・・。少なくとも『大人は大変で辛い。』なんて言われるよりは、ワクワクするかも。じいちゃんは60歳すぎても楽しくやってるし、きっとじいちゃんはそうなんだろう。マスターもじいちゃんの言う通りになった。でも、世の中の大人全員が『わーい楽しい。』なんて思ってるだろうか。楽しい人とそうでない人がいるのは間違いないよね。その違いって何だろう。僕はどっちの大人になるんだろう。
「ただいま。」
「おかえり。遅かったわね。高校どうだった?」
「うん、何人かと話して友達になったよ。まだクラスとかわかんないけどね。」
「三年間やっていけそう?」
「うん、それは大丈夫。」
「高校の教科書、届いたから部屋に入れといたわよ。」
「ありがとう。」
「えっ?」
「えっ、て何。」
「だって、いつもああとかうんとか、日本語になってない返事しかないじゃない。ありがとうなんて久しぶりに聞いたわよ。」
うわぁ、かあさん気づいたか。
「もう高校生だし、大人の言葉づかいを覚えないとね。」
「へー、心境の変化ってやつ?まあ、言われる方も気持ちいいから頑張って続けてね。」
「ねえかあさん、じいちゃんて昔先生だったんだよね。どんな先生だったの?」
「自分ではそうとう人気があったなんて言ってたけど、まあ、本人の言う事だからあてにならないし、どこまで本気なのかわからないじいちゃんでしょ。きちんと授業してたのかも怪しいものね。」
「ふふっ、そうだね。じいちゃん、キリマンジャロ登ったかな。」
「成功してるといいわ。でないと再挑戦だーなんて言いかねないしね。」
「成功したらきっと、新たな挑戦だーって言うから、おんなじだよ。」
「武志の言うとおりだわ。」
ところで、キリマンジャロって、どこの国だっけ・・・。