10月20日
「武志くんの方が進んでるって聞いて、闘争本能に火がついたの。もう完璧な部屋。住宅展示場のショールームに提供してもいいくらいよ。」
「偉そうに言ってるけど、来週武志くんが来るって聞いてから、『くっそおー、負けるもんか!』なんてぶつぶつ言いながら夜遅くまでやってたのよ。」
「でも、部屋きれいになって良かったですね。」
「悔しいけど、その通りだな。一度きれいにしてみると、よくあんな豚小屋みたいなところで我慢してたって。感性がマヒしてたってことなのね。」
「やよいの言う通り。徐々に汚くなってくると、いつの間にかそれが当たり前になってしまうものよ。だから気をつけなくちゃいけないよね。芸術家を目指す人は特にね。」
「いたたた、そこ突かれると反論の余地もないって感じ。ところで武志くんは完璧?」
「はい、ブラックホールだった押し入れも何とか片づけました。」
「歯医者さんにも行ったのよね。」
「ええ、歯医者、苦手なんですけど、自分を大切にするって、こういう事なのかなあって思って。」
「痛かった?」
「表面ちょっと削ったくらいで、特に痛くもなかったです。改めて歯の磨き方指導なんかもあって、けっこうおもしろかったです。やよいさんは虫歯、ないんですか?」
「たぶんない。いや、あるかもしれない。けど痛くない。大丈夫。」
「歯医者さんに、『虫歯なくても、半年に一回くらい検査に来たらどうですか。』って言われましたよ。それに、早めに行くと楽だそうです。僕もあと一回行ったら終わりです。」
「武志くんて、他の人ならちょっと躊躇するようなことも平気ですいすいやっちゃうよね。それってすごい事なんじゃない?」
「そうですか?僕はやよいさんの話を聞いて『すごいなあ。』って思う事多いですけど。」
「いやいやいや、武志くん意外に、と言うと失礼だけど、意外に大物かもしれない。」
「ちょっと自分じゃわかりませんけど、『あんたは小物だ。』って言われるよりはうれしいです。」
「とりあえず、二人とも部屋の整理整頓が完了して良かったわ。気持ちのいい部屋で、いろんな勉強や体験をしてちょうだいね。」
「ところで朋子さん、ひとつ質問があるんですけど。」
「なあに?整理整頓のこと?」
「朋子さんに『一番大切な人を扱うように自分を扱う』って言われて、『きれいな部屋で生活させよう。健康にも気を遣ってあげよう。虫歯があったら治してあげよう。健康にいいものを食べさせよう。』って思ったんです。その最後の部分で、『好き嫌いしないでバランス良く何でも食べよう。』となると、嫌いな食べ物も我慢して食べることになるのかなあって。これ、楽しくないんですけどやっぱり必要ですか?」
「体にいいものをバランスよく食べさせるって、素敵なだと思うけど。やよいはどう思う?」
「不健康でいいから、好きなものたくさん食べたい。」
「でもそれは、やよいが今健康だから言えることかもしれないよ。仮に重い成人病で『こんな風に食事制限しないと、何年も生きられませんよ。』なんて言われたら、私なら医者の言う事聞く。」
「うん、それはそうだ。でも、やっぱり好きなもの食べたいなあ。」
「もちろんその気持ちもわかる。この件については、『無理のない程度に気をつける。』ってことでどうかしら。」
「無理しないって、どれくらい頑張るんですか?いえ、どれくらい頑張らないんですか?」
「思い出して欲しいのは、『大切な人を扱うように自分を扱う』だったでしょ。大切な人が『どうしてもこれは食べられない。』と言ったら、無理させなくていいよ。そのかわり、食べられるものの中でバランスを考えてあげればいいよ。もし大切な人が、どう考えても健康に悪いものを毎日食べてるようなら、『もう少し自分の体をいたわってあげてね。』って言ってあげよう。それでも変わらない場合は仕方ないよ。」
「なんか、かなりハードル下がったみたい。」
「でもね、変えるのは他人じゃなくて自分だからね。自分の責任と行動で、少しだけ変える努力もしていったらいいんじゃない?」
「無理しなくていいなら、ちょっとくらい気をつけてやってもいいよ。」
「ずいぶん他人事ね。まあ、そのくらいの気楽さで頑張ってね。」
「はい、僕もそうします。」
「特に武志くんは気楽にやること。あなた、思い込むとストイックに頑張っちゃう人みたいだから、逆に神経が参っちゃうよ。」
「そんなストイックに見えますか?」
「見える見える。陸上部で長距離やってるってだけで、私からすれば神の領域よ。」
「やよいさんだって、昔バドミントンやってたんでしょ?」
「バドミントンはおもしろい。陸上は・・・ただの修行だ。」
「なんか、偏ってません?」
「いずれにしても、本当の神にならぬよう気をつけたまえ。」
「時々、やよいさんがわからなくなります。けど、まあ大丈夫です。けっこうゆるい人生歩んでるんで。」
「食事にまで話が拡がるとは思わなかった。けど、『自分を大切にする』ということは、十分理解してもらえたみたいね。ここからは、せっかく身につけた意識をどれくらい維持できるかってところが大切。」
「きれいな部屋を守りなさいってことね。」
「まあ、そういうこと。そして、部屋を整頓する度、『ああ、私は自分を大切にしている。』って感じてほしい。その意識があれば、部屋の掃除だけじゃなく、いろいろな場面で自分をたいせつにする習慣がつくはずよ。」
「よし、頑張ってやるか。武志くん、毎月末にお互いの部屋の報告をしよう。」
「はい、負けませんよ。」
「ところで、身体の話が出たので、言うまでもない子ことだけど一応言っとく。」
「なあに?」
「タバコは吸わないように。」
「私、吸ってないよ。」
「僕も吸ってません。」
「武志くんは当然でしょうが。吸ってたらこの店の出入り禁止!」
「ちょっとやよい、ここ私の店だけど。
でも、やよいの言う通り。これからもタバコの習慣はつけないようにしようね。私の友達や知り合いにもタバコ吸ってる人が多いけど、良くないってわかってるのに止められないんだって。あれってほんとに可哀そうだと思う。」
「一度吸っちゃうと、止められないんですよね。」
「どれくらい止められないのか、私にはわからない。でも、私の周りで吸ってる人のほとんどが後悔してた。かなりのヘビースモーカーの友達はね、『長時間飛行機の中にいたくない。海外なんていかなくてもいい。』なんて言ってる。タバコ吸っちゃったことで、自分の行動まで制約を受けてる。」
「へええーっ!私は海外旅行ばんばん行きたいから、絶対吸わない。そもそも吸うつもりもなかったけどね。」
「現代は喫煙者には厳しい時代ね。交通機関はほぼ全部が禁煙だし、かなりの公共施設や飲食店も原則禁煙になりそうだし。あっ、わかってると思うけど、この店も禁煙よ。」
「昔はどうだったの?」
「昔って・・私そんなに年寄りじゃないわよ。でもね、中学校と高校の職員室で、机の上に灰皿置いてた先生がいた。当時は言えなかったけど、その先生のそばに行くの嫌だった。考えてみると妊娠してる女性の先生もいたのに、ずいぶんひどい環境だったのね。
昔のことを考えると、今は喫煙者には厳しいけど、禁煙者には優しい時代になったわね。この店も、母がやってた頃は灰皿置いてたっけ。タバコが吸えない喫茶店なんて、お客が来ない時代だったからね。もし、その時代のままだったら、私はこの店やろうと思わなかったかもしれない。煙にまみれて仕事するなんて、大切な人にさせたいと思わないから。」
「私、今の時代に生まれてラッキーだったかも。」
「だからあ、そんなに世代の違いないってば。」