10月23日
「朋子さん、こんにちは。」
「あら、和子さん、いらっしゃい。久しぶりね。元気だった?」
「はい、相変わらず忙しいですけど、元気です。朋子さんは?創作活動は進んでますか?」
「新作は油絵よ。見てみる?」
「ええ、是非。」
「ちょっと待っててね。」
そう言い残すと、朋子さんは2階のアトリエに上っていった。
武志と一緒に来て以来の「シエロ」。まだ2度目なのに落ち着く空間。朋子さんの気持ちが店全体を包んでいるのがわかる。お気に入りだけど、ちょっと遠くてそうそう来ることはできない場所。でも、そんな場所と巡り合えたことがうれしい。ここは素直に、武志に感謝しよう。
高校に入ってから、武志は変わった。中学時代の武志は、そこそこ真面目だし協力的だったけど、自分からリーダーシップを取るタイプじゃなかった。私が生徒会と部活動の両立で精一杯の時、あいつは何のストレスもなくバスケをしてた。たぶん。
武志の行く高校を聞いた時も納得した。成績が悪いわけではなかったけど、血眼になってぐいぐい勉強するようにも見えない。入れるところに入るという感じ。なんか、欲がないっていうか、もっと本気でやってみたらいいんじゃない? そんな同級生の武志。
あいつが変わった理由は「シエロ」の朋子さん。でも、どんな素晴らしい人がついてたって、本人に気持ちがなかったら成長はない。あいつは、自分の力でどんどん成長している。
武志に負けそう。
でも、負けそうって何なんだろう。勝つって何?武志が変わっていくことに驚きとわくわくがある。同時に、何て言うか、嫉妬みたいな感覚も持ってる。
自分て、人間が小さいのかなあ。
「お待たせ。どお?」
「うわー、本物そっくり!これってまるで写真じゃないですか!」
「いつもとは別の意味で本気出した。」
「このリンゴなんか、取って食べられそう。でも、朋子さんのさわやかな風景画とギャップが大きいですね。なんか、心境の変化でもあったんですか?」
「夏にね、千葉にある小さな美術館に行ったの。その美術館は、本物そっくりの写実的な絵を展示してるんだけど、けっこう感動しちゃってね。正直言うと、写実画は写真と同じだから写真でいいじゃないと思ってた。でも、実際に作品を見るとね、『ここまでやるか!』っていう画家の執念に圧倒されて、しかも、絵の中に作者の気持ちも何となく見えるような気がして、影響受けて来たってわけ。」
「それで、この絵ができたんですね。」
「作風を変えるつもりはないのよ。今まで描いてきた絵の方が好きだし。でも、写実的な絵が描けないってのも悔しい気がして、ひとつだけ挑戦したくなった。ちゃんと完成したら、店に飾るわね。」
「えーーーっ!?これで未完成なんですか?これ以上描くとこないみたいですけど。」
「美術館で見た絵に比べると、まだ執念が足りない。」
「なんか、かっこいいですね。」
「うわっ、話に夢中になって、何も出してなかったわね。何にする?」
「アッサムティーお願いします。ポットで。」
「はい、かしこまりました。」
「ところで、今日は学校お休みだったの?」
「なぜか午前授業。先生の研修みたいで部活もないから、久々に来てみようかなって思って。で、武志に『今日、シエロに行く。』って送ったら、『じゃあ、僕も部活終わったら寄ってみる。』って返事来て、ここで待ち合わせです。」
「うちの店をデートに使ってくれて、ありがとう。」
「あはは、そうですね。結婚式には招待しますから、是非来てください。」
「今の、武志くんに言ってもいい?」
「武志のことだから、私から逃げるために転校しちゃいますよ。」
「じゃあ、これは私達だけの秘密、ということで。」
「はい、お願いします。」
女同士のおしゃべりってあんまり好きじゃないけど、朋子さんと話すのは楽しい。つまんない冗談言い合っても引きずらないし。それに、話題も刺激的。
「武志から聞いたんですけど、『自分を大切にする』っていうのが今月のテーマだそうですね。」
「最初はね、『整理整頓』だったのよ。それを進めて行く中で、『大切な自分だから、大切な人のように扱ってあげようね。きれいな部屋で生活させて、健康にも気をつかってあげて、いいもの食べさせて。』って話したわけ。」
「武志、言ってましたよ。『きれいな部屋にはなったけど、油断するとすぐ散らかってく。』って。」
「あと2か月くらい頑張ると、それが何でもない習慣になるから、今は耐えて欲しいわね。
ところで、和子さんは、部屋きれいでしょうね。しっかりしてるみたいだし。」
「うーん、微妙かなあ。整頓はしてますけど、気分良く寝れればいいやって感じで、あまりこだわりはないです。」
「そう聞くと、それも和子さんらしいと思えるなあ。」
「部屋はいいんですけど、あまり自分の体をいたわってなかったかなって反省してるんです。生徒会とか、学校祭とか、ほとんど寝ないでぐわーって準備して、ふらふら状態も結構ありました。あの時は自分のこと考えてる余裕なんかなかった。もし、友達が同じことしてるって聞いたら、『あんた体こわすよ。みんなに手伝ってもらえば?』なんて言うはずなのに、自分だと我慢してやっちゃうんですよね。まあ、自分ではそれでいいって思ってもいるんですけど。」
「自分に厳しく人に優しいって大切よ。それで問題ないと思う。でも、ちゃんと睡眠を取れるように計画的に行動できればいいのよね。」
「そうなんです。ゆとりがなくて直前に動くから、友達にも頼めなくなって、結局自分で全部やるしかなくなっちゃう。もう涙がでます。」
「人を動かすリーダーは特に、見通しを持って計画することは大切てことね。」
「ほんとにそうですね。」
◇ ◇ ◇
「こんにちは。いえ、そろそろ今晩は。ですか。」
「武志くんいらっしゃい。何か飲む?でも、そんなに長居できないね。」
「遅くなっちゃいました。和子ごめん。」
「ぜんぜん平気。私、朋子さんとお喋りしに来たんだもん。それに、武志がいない間、秘密の話もたっくさんできたし。」
「なんか、怖いな。」
「大丈夫、武志の悪口なんか言ってないから。」
「そうよ。かなり誉めてたのよ。」
「ますます怖いです。」
「じゃあ武志、帰ろうか。朋子さん、おじゃましました。ごちそうさま。」
「また来てね。武志くん、彼女をしっかり守って送ってあげてね。」
「その心配はないと思いますが、そうします。」
◇ ◇ ◇
「本、ありがと。」
「へー、ちゃんと読んだんだ。」
「うん、実は最初の50ページくらいは苦しくて苦しくて、ほんとに全部読み切れるかなって思った。でも、ゴルトムントが旅にでてからは、割とすんなり読めた。」
「で、感想は?」
「難しくて、ちゃんとした感想言えない。でも、思ったのは、二人とも自分を大切にしてないなってこと。片っ方はペスト大流行の地域に突入するし、もう一方は何の楽しみもない修道院で一生終わるし、自分の一番大切な人にこんなことさせられない。つまり、自分はこんなことしない。」
「うん、私も二人と同じ人生は無理。だけど、人間が何を感じて、何を求めて生きていくのかっていう根源的な課題に応えてる本だと思うんだ。実力のない人間が『こんな生き方しかできませんでいた。』じゃなくて、情熱も能力もある人間、願った通りに生きていける人間が、それでもあんな生き方を選択するってところが、不思議だし、感動するのよね。」
「あっ、それから本読んで、『和子らしい本の選択だ。』って思った。」
「なんか引っかかる表現だけど、ヘッセの本を誉めてもらったから、素直にうれしい。」
「また、何かいい本あったら教えてね。」
「いっぱいあるよー。」
「ところで和子、英語の勉強は進んでる?」
「夏休みにトーイック受けてきたよ。」
「英検みたいなやつだっけ。」
「そう、受験会場が大学で、受験生もほとんどが大学生か社会人。その中に混じって受験するのって、けっこう緊張したけど、わくわくした。あっ、何と小学生も一人いたよ。あれ、何だろうね。帰国子女ってやつかな。
で、結果は475点。もう少しいくかと思ったんだけど、かなり難しかった。」
「その点数聞いても、どれくらいすごいのか全然わかんない。」
「受験者の平均くらいかな。」
「大学生の中で平均なら、すごいじゃん。」
「まあ、そうだけど、でも目標はもっと上だからね。」
「それって、いくらかかるの?」
「なんと、5000円以上した! でも実家のじいちゃんに『英語の試験受けるのに5000円かかるの。』って言ったら、小遣いもらえた。実質出費はゼロ!
ん? もしかして、武志も受けてみようと思った?」
「ないない。ただ興味あって聞いただけ。」
「武志は、毎朝のデッサンやってるの?」
「一応頑張ってる。」
「がんばるねー。そのうち、いいのできたらシエロに飾ってもらったら?」
「10年先になるね。」