2月25日
「武志くん、いらっしゃい。なんだかうれしそうね。」
「未来の計画、けっこういいのができたんでうれしくて。」
「楽しみだなあ。ちょっと待ってて。コーヒー淹れるから。今日はブラジルね。当たり前すぎてストレートで頼む人は少ないけど、実はとってもまろやかでバランスのいい万能選手。」
「ありがとうございます。」
「それで、計画はどんな風に変わったのかな?」
「では、発表します。」
大学18歳~22歳 日本大学建築学部に進学 日本大学は1級建築士の合格者数や合格率も高く、入試も数、理、英の3教科で受験可能なので、なんとか頑張れそう。 それに、劇場を専門とする教授もいることがわかった。 大学では、建築士の国家試験に合格するための勉強を中心にする。 東京周辺の建築物もたくさん見て、ノートを作成する。 住まいは、船橋にワンルームのアパートを借りる。 卒業旅行はフランスに行って、ロンシャンの礼拝堂を見る。 |
22歳~30歳 大手の建設会社に入社。まだ建築士の資格もないから、はじめは大きな仕事などは任されない。24歳になったら1級建築士を受験して合格。資格を取ったことから給料がアップし、手取りが30万円を越える。 26歳でビルの一部の設計を任せられるようになる。ここからは実力の世界だ。 28歳で結婚。これを機に引っ越しをする。大学時代から慣れ親しんだアパートにもお別れ。 新婚旅行はバルセロナに行って、ガウディの建築群を見る。 30歳で、ビルの設計主任に抜擢。まだ小さなプロジェクトだけど、自分が中心になって設計を行う。 |
31歳 第1子誕生 ようやく貯蓄が1000万円を超える。でも、ここからは子どもにお金がかかるから、今までのようには貯蓄できないだろう。それでも、建築士としての力は確実にアップしているので大丈夫。 |
33歳 第2子誕生 会社がフランスに現地法人を立ち上げ、フランス政府が発注する国立劇場の仕事をすることになった。このプロジェクトの応援のために1年間のフランス出張になる。 家族とはしばしの別れだ。 |
34歳 家族もフランスへ 出張だったはずがフランスでの仕事ぶりからそのまま転勤になる。パリ郊外のアパート(かなり広い)に家族を呼び、パリの生活が始まった。奥さんは日本でフランス語の勉強をして準備していたし、僕も1年間の生活で少しは話せるようになっている。日常生活に支障はない。 次の年には第1子(男かな?女かな?)を現地の幼稚園に入れる。奥さんはいよいよフランス人との交流が活発になってきた。 |
39歳 独立 フランスでの仕事も順調に進んでいる。会社は郊外の個人住宅や大型ショッピングモールなどの受注もあり、僕の建築士としての知名度も上がって来た。 個人的に設計を頼みたいという依頼も多くなり、一大決心して独立する。独立して個人で仕事を請け負う傍ら、元の会社の依頼も受けて設計もする。前の会社との関係も良好だ。 |
41歳 会社の規模を拡大する。 「フランス在住の建築家」として日本でも話題になり、日本からの仕事も増えてきた。そこで、日本に事務所を開設する。従業員は現在20人。 僕の年収は2000万円を超え、貯蓄もようやく1億に達する。 |
44歳 インドネシアの国立劇場のコンペで優勝 「近未来のフォルムの中にインドネシア独自の文化を感じさせる」と高い評価を受け、設計を任されることになる。 この事業のために従業員を増やし、現在は35名の建築事務所になっている。 この年を境に、年商が5憶を突破する。 |
46歳 パリ郊外に建てた集合住宅が、フランス建築品評会で最優秀。 オリンピックスタジアムのコンペで優勝し、いよいよ目標の実現となる。 この時会社の年商は10億を超え、僕の資産も10億に達する。 会社には優秀なスタッフが数人いて、ほぼ仕事の全てを任せられるまでに成長してくれた。だから、長期のバカンスも可能になり、家族で世界の国々をめぐる旅ができる。 |
50歳 僕の建てたスタジアムで、オリンピックが開催された。 (朋子さんを招待する。) |
53歳 自分で設計した別荘が、スイス、サンフランシスコ、インドネシアにある。設計の仕事だけでなく、講演の依頼も来るようになる。 |
60歳 イタリアのジェノバに建てた現代美術館が話題になり、「将来の世界遺産に」という声が高まる。 すでに資産は50億を超えているが、もうお金には執着しない。 |
63歳 建築事務所は自分の片腕に譲り、引退する。引退して「会長」というポストに残ることもなく、きれいさっぱり身軽になる。 |
65歳 日々の生活費は時々舞い込む「講演」の謝礼で十分賄える。自分の資産は「開発途上国への援助」に使ってしまう。 |
71歳 ノーベル賞(平和賞)受賞 自分の設計事務所は、長年に渡り開発途上国の若き技術者を雇い、技術を習得させて母国に戻すという取り組みをしてきた。また、その技術者が帰国する際には、国のインフラ整備のために無償で資金提供もしてきた。 その取り組みが実を結び、世界各国の生活水準の向上が見られたことからノーベル賞の受賞となったわけだ。 もちろん賞はありがたくいただくが、賞金はすべて次のインフラ整備に寄付をする。 |
95歳 死去 10年後、「長倉武志の近代建築群」が世界遺産に登録。 大変充実して幸せな人生でした。 |
「なかなかうまく書けてるね。それに、世界遺産やノーベル賞も出てくるとは思わなかった。武志くんの性格、変わったみたいね。」
「でしょ? この性格、誰に似てると思います?」
「あっ、そうか! 西野先生!」
「正解! でも、じいちゃんに書いてもらったのではないですよ。じいちゃんならどんな風に書くかなって思って書いたら、意外にすらすら書けちゃいました。」
「なるほどね。他の人になり切ってみるって、大切な資質のひとつだからね。」
「でも、じいちゃんが億万長者の建築家ならマネするのもありですけど、元先生のじいさまのマネしてもどうかなって思っちゃいました。じいちゃんごめん、ですね。」
「それもそうね。私も、先生ごめん。」
「で、朋子さんはこの計画をどう思いますか?」
「いいと思うよ。でも、もっと具体的にしておくことがあるかもしれないな。」
「趣味・・ですか?これはちょっと思いつかなくて。」
「今はいいよ。そのうち人生をかけて打ち込む、仕事以外のテーマが見つかるはずだから。
昔読んだ本の話をするね。ヒントになるかもしれないから。」
それは、「ザ・シークレット」っていう、表紙もなんだかインチキくさい本なんだけどね。
その中にこんな話がでていたの。」
若い頃私は、ボードに写真を貼り書き込みをして、将来の自分の姿をイメージできるようにして、部屋の見えるところにに飾っていました。ボードには、「いつの日か、こんな家に住むんだ。」と、雑誌に載っていた素敵な家の写真も切り抜いて貼っていたのです。プール付きの白い大きな家です。 それから月日は流れ、住まいも数回移りながら、最後には自分の理想と言える職業に就き、目標にしていたプール付きの大きな家を購入することができました。 その家でしばらく生活していると、なぜか昔からこの家を知っているような感覚にとらわれたのです。不動産屋さんから薦められて気に入って購入した家。以前の所有者との面識も交流もありません。でも、なぜか懐かしい感覚があるのです。 もしやと思い、若かった頃のものを箱から出してみました。幸運なことに「未来のボード」は捨てられず、箱に収められていました。 そのボードの写真をみて、本当に驚きました。私が今住んでいる家は、まさに若い頃に「未来のボード」に貼りつけた家そのものだったのです。似たような家ではありません。無意識に、自分のイメージしていた家にめぐり合ったから、私は躊躇なくその家を買ったのだということがわかりました。 |
「なんだか、怖い話のようにも思えますね。」
「この話が本当のことなのかはわからない。作者の作り話ということだってあるからね。
でもね、この話の中には重要なポイントがあるように思えるの。
それは、「視覚でイメージしたものはいつまでも心に残る」ということ。
だから、武志くんの未来計画にも「視覚に訴えるもの」や「具体的にイメージできるもの」を取り入れるといいかもしれないよ。
3件の別荘は、これから自分で設計するわけだから、写真を貼ってもその通りにはならないけど、「こんなイメージの家」という意味で写真を活用するといいわね。もしかしたら、自分の設計は別の場所でやって、スイスの別荘は写真ものを手に入れるかもしれないしね。」
「そうですね。考えてみます。」
「全体としては、すごく具体的でOK! ロンシャンの礼拝堂って、雲みたいな屋根がのってる、あれだよね。」
「朋子さん詳しいですね。世界遺産の建築を調べたら、ル・コルビュジエって人が出てきて、その人の作品だったんです。すごく変わってて、一度見てみたいなあって思ったんです。」
「うん、これくらい具体的だと、絶対実現するよ。」
「この計画、全部実現したらすごいですね。」
「そうすると、私はノーベル賞受賞者に多大な影響を与えた人物ってことね。」