こんな本を読みました。
その中の一節を紹介します。
「よい」は「みんな」のノリにかなっていること
このような小社会では、独特の「よい」と「悪い」が成立している。彼らは、自分たちなりの独自の「よい」「悪い」に、大きな自信と自負を持っている。それは、きわめて首尾一貫したものだ。
この倫理秩序に従えば、「よい」とは、「みんな」のノリにかなっている、と感じられることだ。
いじめは、そのときそのときの「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」ことだ。いじめは、われわれが「いま・ここ」でつながっているかぎり、おおいにやるべき「よい」行為である。いじめで人を死に追い込む者は、「自分たちなり」の秩序に従ったまでのことだ。
大勢への同調は「よい」。ノリがいいことは「よい」。周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。強者に対してすなおなのは「よい」。
「悪い」とは、規範の準拠点としてのみんなのノリの側から「浮いている」とかムカツクといったふうに位置づけられることだ。自分たちのノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが「悪い」ことである。
「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。
「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は「悪い」。
「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は、とても「悪い」。
弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、ものすごく「悪い」。
途中略
彼らの小社会では、ノリながらやるのであれば、何でも許されるが、「みんなから浮いて」しまったら、何をやっても許されない。
書き写しながら心が寒くなりますが、こんな側面があるのも事実です。(これが全てではないと思うし、そう信じたいものですが。)
学校というシステム自体が、上記の「ノリ」を生んでいると言ったら、言いすぎでしょうか。
本来、教育と学習に何の支障もない「服装」「頭髪」「不要物」「買い食い」などの規制の数々、それは、一般社会の人権や常識から外れても、「教育のため」という言葉で許されてしまう。いくら意欲的に勉強しようと決意し、社会の問題を良識を持って考え行動しても、おそらく茶髪であれば教師は認めないし許さないでしょう。
規範の準拠点としての「学校のすがた」から浮いているのは「悪い」。
髪を染めているにもかかわらず自信を持っている者は、とても「悪い」。
茶髪が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、ものすごく「悪い」。
あれっ?子どものいじめとおんなじ構図だ・・・。
学校の先生には、できるだけ早く改善してほしいものです。でも、先生方も「学校らしい学校 生徒らしい生徒」を守るというノリで行動しているので、同調しないのは「悪い」。となるから、大変です。
この本の作者は、いじめ問題の解決策として、「現在の学校という閉鎖的なシステムを再構築する」ことを書いています。(その第一歩として「学級制度の廃止」なんかも提案してます。)
一度、学校というシステムを根本から見直す必要がありそうです。
いじめは、なかなか根の深い問題です。機会があれば、またコメントしますね。