金子みすゞの有名な詩

「 私と小鳥と鈴と 」
              金子みすゞ

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面を速くは走れない。
   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに
   たくさんな唄は知らないよ。
   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

ひとつひとつの個性をそのまま受け入れ、
すべての命に(命以外のもにまで)優しさを注ぐ、
美しい詩です。

とても簡単な言葉しか使っていないのに、
こんなにも軽やかで素敵な詩を作れるって、いいですね。

この詩を引用する場面が増えてきた

例えば障がいを抱えて生きている人。
心の繊細さが自らの行動を制限してしまう人。
年齢や性別、国籍や宗教などの違い。
LGBTの人や、その理解者、支援者。

いろいろな場面で「みんなちがってみんないい」という言葉が聞かれます。

この詩は個性を大切に生きようとする人々のシンボルになっています。

確かに社会の中で「意味のないこと」「本来の目的がなくなってしまったこと」なのに、集団全体に合わせることを強いられる、そんな場面も多く見られます。
その中でも特に顕著なのが「学校のきまり」
おかしい校則、多いですよね。

意味を成さないのに「ルールだから従いなさい。」とか
そんなことも守れないようじゃ社会に出てから・・・」とか
息苦しくなるような指導や声の多いこと。

人は、もっと自由に生きていいのです。

自由とわがままの狭間で

最近、10歳のユーチューバーが「学校に行かない。」
と宣言して活動していると言う話。
もちろん日本国憲法に照らしてどうなのかとか、
保護者の虐待じゃないかとか、いろいろな意見も出ています。
そのへんの法律は、とりあえず置いといて・・・

これは自由ですか?わがままですか?

先に言っておきますが、自分の中で結論は出ていません。

最近のいじめ問題等で「学校に行かなくてもいい。」と言うのとは
本質的に違う問題です。

難しいです。

金子みすゞさんに怒られそうだけど・・
「みんなは勉強してるけど、私は勉強きらいです。
 みんなちがってみんないい。」
「先生宿題だすけれど、私はしたくありません
 みんなちがってみんないい」

こんな風に、素晴らしい金子さんの詩を曲げて理解している人は
いないのでしょうか。

もちろん、人の生き方は千差万別だし、
どの生き方が良いとか悪いとか言えるものでもありません。
それでも、若いみなさんには
「夢を持つ」「それに向かって精一杯努力する」という行動をして欲しいのです。

「宿題が出されるから、学校に行かない。」
これは一見すると自分を出しているように見えながら、
実は「宿題を出す」という先生に自分の人生を狂わせられているわけです。
それなら
「家では他にすることがあるし、学校の学習のやり残しを家に押し付けるのはおかしい。だから私は宿題をやらずに学校に行く。ついでに全て置き勉する。」
の方が潔くて、自分の人生を生きているような気がします。

学校に行かないのは苦しいから?いやだから?

ほんとに苦しかったら、行かなくていい。
いじめられたり、先生の暴言に耐えられないような状態なら、
我慢する必要はありません。

勉強そのものに興味を見出せないということなら、
そこはちょっとだけ我慢してがんばってほしい。
勉強は大切だから。(学校内外を問わず)

「あなたは数学好きなのね。
それならそのまま頑張って!
私は音楽好きなので、
人の3倍頑張ります。
みんなちがってみんないい」

これだと、わかるのですが・・・

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